青い目の人形物語
日米親善のために
昭和のはじめ、経済不況にあったアメリカでは、反日感情が高まりました。これを心配したシドニー・ルイス・ギューリック博士は、アメリカと日本のお互いの理解のために人形を贈る計画を立てました。全米に協力を呼びかけ、青い目の人形を集めました。そして、昭和2年(1927年)、日米友好のあかしとして1万2739体の人形が日本にやってきました。
静岡県内には253体が配られました。
ワレンちゃんがやってきた
そのうちの一体が同じ年の4月16日に朝比奈小学校にやってきた「マーベル・ワレン」ちゃんです。児童や住民から大歓迎されました。
ポケットには、パスポート(船の切符)が入っていました。
戦渦を乗り越えて
日本とアメリカとが戦争を始めると、「にっくき敵、アメリカのスパイ」と、アメリカ生まれの青い目の人形の処分が日本各地で始まりました。
朝比奈小学校でもワレンちゃんの処分が校務員の山田みつさんに命じられました。しかし、みつさんは「目のあるものには命がある、処分することなんかできない」と、ワレンちゃんを箱ごと油紙やぼろ切れで包み、当時6年生の息子貞利さんと校庭の隅のヤギ小屋のわらの中にかくしました。
戦争が終わり何年かたったころ、朝比奈小学校では、焼かれてしまった青い目の人形を懐かしがる声が聞かれました。それを聞いたみつさんは、ワレンちゃんをかくしたことを打ち明けました。そしてワレンちゃんは再び日の目を見ることとなりました。
市の指定文化財に
浜岡北小学校の時代になってもワレンちゃんは、平和を伝える学校の宝として大切にされてきました。そして、平成20年12月御前崎市指定文化財となり、市の宝物として後世に引き継いでいくこととなりました。
ワレンちゃんの身長は36.5cm、体重は730g。
寝かすと目をつぶり、お腹を押すと「ママー」と声を出します。